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2015/2/2 父83歳で永眠 [☆日常の出来事☆]

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2月2日19時、その日はとても寒く、澄んだ空には、十三夜月がやさしく本当に美しく輝いていました。

病院の仕事が終わりに近づいたその時、別の病院より、私に電話が入りました。母からでした。母の不安定で力弱い一声に、覚悟を決めました。

 父が救急で病院に運ばれ、脳幹より出血をし、自力呼吸が停止し、心臓は動いているが、人工呼吸器を付けても意識はもう戻らないし、脳幹の手術も出来ない状態、血液をサラサラにする薬を常用していたので、手術をしても血液が止まらないだろう。という状況説明を聞かされました。

「もうダメなんだね・・・」と返事をし、父が居る病院へ向かいました。

病院に付くと、医師が手動のポンプで肺に空気を送りながら、状況を説明して下さいました、聞けば、5時半位から3時間も手動のポンプをして下さっているとの事、本当に有り難い事です。その後、家族だけでしばし話し合う時間を頂きました。

私の娘に電話をし、すぐに来る様に伝えると、私は、「父の魂から直接話を聞きたい」と母と兄に伝えおもむろに、父の魂とチャネリングしました。

動揺を沈め呼吸を整えると父の意識と交信出来ました、

「今、どこに居るの」 ーここにいるよ
「肉体を離れているの」ー離れているよ
「もう肉体に戻る気持ちは無いの」ーううん、もう戻る気は無いな〜
「肉体を出る時苦しかったの」ーいやいや、くるしく無かったよ、大丈夫だよ
「じゃあ、もう人工呼吸器を付けたり、手術したり何もしないでこのままでいいのね、呼吸器を付ければどのくらいか解らないけど、肉体を生かせるけど」
ーいやいや、いやいや、何もしなくていいよ、戻らないからいいんだよ」

「パパさん、今までありがとう、みんな今ここに居るよ、メルモ(私の娘)ももうすぐ来るからね、本当にありがとう、まだ居てね」
ーうん、うん、わかったよ、わかったよ、

「パパさん、光へ向かって行くんだよ!後の事は心配無いからね、でもまだ居てね」

全部意識の中での交信でしたので、私は更新中も大泣きでしたが、家族にも大泣きしながら父の魂の意志を伝えました。

娘が到着し、じいちゃんと孫との時間を頂き、医師は手動の呼吸を停止しました。

私は父の心臓に手を置き、手を握り、ゆっくりと肉体の細胞さん達がその働きを終えようとしてゆく、肉体から生体エネルギーが退いて行くのを手のひらで感じながら、細胞さん達と肉体のエネルギーと魂に感謝を送りました。

 2月6日に葬儀を終えました。前日は東京も雪でしたが、快晴のとても暖かな良い日でした。

 思えば、父は目が悪く盲学校を出て、自力で単身群馬から東京へ出て来て、
自力で大学へ入り、経済学と政治を学び、アルバイトで学費を稼ぎ、
生活は家が無いので、上野の西郷さんの銅像の下で野宿をしていたとの事。

 大学を卒業し、昔の社会党の党員となり政治活動を始め、
鍼灸、マッサージの仕事をやりながら、家族も持ち、子供も育て、
そして、東京都の区で区議会議員もやりました。
選挙も5回も出馬しましたので、家は貧乏、暇無しでした。

選挙違反ですが、私が小学生の頃より父の活動を手伝いました。
ガリ版で、チラシを刷り、町中に深夜に父と貼りに行きます、
「警察が来たら、貼るのを辞めて、パパが警察に捕まったら、気をつけて知らん顔して家に帰る様に」と父に言われていました。(昭和ですね〜)

選挙の事務所ではおにぎりを作ったり、成人になってからは、うぐいす嬢をやったり・・・父が若い頃のお話です。

孫が生まれてからは、孫にメロメロの穏やかな、にこにこおじいちゃん、と言う感じでした。

父が具合が悪くなった大きなきっかけは、連日のイスラム国の湯川さん、後藤さんの拘束、殺害にとても気をもみ、心を痛めていた、と母は話していました。

色々と書きました、これは私の心の整理の為です。
 
矢作先生の「人は死なない」を父に読んでもらっていた事をきっかけに、
肉体は死んでも、魂は生き続けるお話を父と生前に出来た事は本当に良かったです、死を見つめる時間が父を安心させたと思います。
矢作先生に感謝致します。

父に家族に、親戚の皆様に、父に関わった全ての人々に、
そして読んで頂いた方に心より感謝申しあげます。

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